縄文・弥生時代 (社会科)
【 縄文時代の自然環境 】
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温暖化によって,およそ1万年以上前にユーラシア大陸から切りはなされて日本列島が形成され,縄文時代が始まった。
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ナウマン象やオオツノジカなどの大型動物が滅んだため,小型動物のシカやイノシシが狩猟対象となり弓矢が発明された。弓矢と土器は縄文時代の2大発明と言われている。
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豊かな森林資源に支えられていた東日本に人口は集中していたと推測されている
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ほかの地域とのあいだで黒曜石やひすいなどの特別な石材や塩などの特産品の交易もさかんに行われた。
【 むらと縄文人のくらし(竪穴住居、大型竪穴住居、物見やぐら、巨大木柱、集落、建物) 】
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人々は集団をつくり、竪穴(たてあな)住居に分かれて住んだ
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長期間にわたる定住的な集落(むら)が形成されはじめた
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大きなむらには、中央の広場を囲んで竪穴住居、掘立柱の建物、墓、ごみ捨て場などがあったことが知られている
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建物には、竪穴住居、大型竪穴住居、物見やぐら、高床(たかゆか)倉庫があった
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集落にはクリの巨大な木柱でできた高い物見やぐらなどの大型建造物があった
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住まいとしての竪穴住居の他に、共同の集会場(または作業場)と思われる大型の竪穴住居もあった
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高床倉庫には食料を保存していた
【 狩猟、採集、漁、食料 】
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縄文時代には木の実や、獣や鳥、魚や貝などが豊富だったため、農耕や牧畜はあまり発達しなかったが、クリなどの栽培は行っていたようである。しかし、自然に頼る生活だったため安定した食料の確保には苦労したと思われる。
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縄文時代の人々はブナやナラの森に住むシカイノシシなどの小型の動物を狩るために、弓矢で射ったり、落とし穴などのわなをしかけたりしていた。
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クリ、クルミ、トチ、ドングリなどの木の実や山菜、きのこを採集して食べていた
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魚を釣ったり、貝や海草をとったりしていた
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貝塚や低湿地などからは、土器、石器、木製品,骨角器などの道具の他に、人骨、獣骨、魚骨、貝、排泄物(ウンコ)が見つかることがある。そのため、これらの特殊な土壌は縄文人の生活を知る上で貴重なタイムカプセルといわれている。
【 土器、石器、各種道具 】
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縄文時代の土器には、よりひもを転がして縄目の文様(もんよう)を付けた土器が多く、縄文土器と呼ばれる。
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縄文土器は深鉢(ふかばち)の形をした煮炊き用のものがたくさん作られたが、食べ物の保存(貯蔵用)や特殊な用途の器も縄文時代の後半から作られはじめた。
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自然にある粘土、石、木、動物の骨や角を材料として、土器、石器、 木製品、骨角製品などの道具が作られた
【 祭祀(さいし)、まつり、儀礼(ぎれい)、精神生活、服装、耳飾り 】
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さまざままつり、まじない、占いが行われたと考えられている
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土偶はほとんどが女性なので豊かな恵みを祈ったとされる
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主に女性をかたどった土偶は,お祭りやまじない、お祈りに使用していたと考えられている
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土偶の一部が欠けているのは、けがや病気を治したり、新しい生命を育むためのまじないとしてわざと壊されたと考えられている
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縄文時代の墓は地面に穴を掘り,死者の手足を折り曲げて葬る屈葬や手足を伸ばして葬る伸展葬などが行われた
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縄文時代の遺跡からは、髪飾り、耳飾り、首飾り、貝殻でつくった腕輪(うでわ)などの装飾品を付けた人骨が見つかっており、多数の飾りを付けた人物は特別な力を持った者と考えられている。
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服装は麻のような繊維できていた
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耳飾りもしていた
【 遺跡 】
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三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき 青森県)
【 その他(体験学習) 】
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火起こしや土器を野焼きするなどの体験学習をするとよい
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縄文クッキーを作って食べてみよう
【 弥生時代と弥生文化 】
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日本ではじめての農耕文化を弥生文化と呼ぶ
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弥生時代は、紀元前4世紀ごろから、古墳が築かれる三世紀後半ごろまでの期間をいう
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弥生土器(弥生式土器)を使って暮らしていた時代を弥生時代と言い700年ほど続いた
【 むらから国の形成 】
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弥生時代には、米作りを指導する者が現れ、かしらとなった、米を蓄えることで身分の違いが生まれた
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支配するものとされるものが出てきて、支配するものはその地位を利用して富を増やし、人々の間に貧富の差が生まれた。
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米作りが広がると、田地や水、米などをめぐってむら同士の争いが増え、争いによって有力なむらが小さなむらを従え、争いに勝ったむらのかしらが豪族へと成長し、しだいに小さな国が生まれるようになった。
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むらの首長(かしら)は戦いの指揮や、農作業や祭りの指図をし、地位をしだいに高めていった。
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むらとむらが争いが始め、力がある者が小さな国を作るようになり、国というまとまりをつくるものが王と呼ばれるようになった
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争いからむらを守るために、高いところにあってのろし台(物見やぐら,物見櫓)を持つ集落や、周りを堀(環壕)で囲まれた集落が形成された
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三世紀の中国でかかれた歴史の本「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に書かれている卑弥呼は邪馬台国の女王である
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卑弥呼は中国の皇帝から王に任命され、金印や銅の鏡が与えられた
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卑弥呼はうらないによって国を治めていた
【 文化(渡来人(とらいじん)、大陸,養蚕(ようてん)、鍛冶(かじ)、貨泉(かせん)、鋳型(いがた)、銅剣作り 】
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弥生時代には、渡来人が青銅器や鉄器などの金属器や石器などの技術を伝えたため、人々のくらしは大きく変化した
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渡来人とは大陸や朝鮮半島などから日本に渡ってきた人々で、建築や土木工事、焼き物などの進んだ技術を身につけた人々がいた
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渡来人が伝えた技術は、養蚕(絹)、機織り(麻)、鍛冶などの技術や、筆、紙、酒などをつくる方法などである
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渡来人の進んだ技術や文化などを豪族たちが進んで受け入れ、国づくりに役立てた
【 米作り(稲作)農具 】
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縄文時代後期(約2400年前)、中国から稲作(米づくり)が朝鮮半島南部を経て九州北部へ、渡来人により伝来した
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紀元前3世紀ごろから、稲の栽培(稲作、米づくり)が食料生産の中心になった
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米作り(稲作)が始まって、人々は湿地の近くに定住するようになり、水田の近くにむらが形成された
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米は収穫が多く、種籾を長い間蓄えることができるので、定住することができた、人々のくらしが豊かになった
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米作りは、あぜを作るなどの多くの人手が必要なので、むらの人々が協力して行った
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米作りが始まった頃のむらや水田の跡が遺跡として残っている。
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水田はあぜで区画されており、潅漑(かんがい)用の水路がつけられていた。
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米作り(稲作)では、収穫した稲の穂(もみ)を蓄えるために高床の倉庫(高床式倉庫)が建てられた。
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高床式倉庫は湿気を防ぎ、ネズミ返しでネズミの進入を防いだ
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人々は、湿地を木製農具で耕し、田げたをはいて水田の上を歩いていた
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水田にもみをまき、田植えをおこなった
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米作り(稲作)には、田げた、木製の鍬(くわ)や鋤(すき)、臼(うす)、杵(きね)などの木製農具が使われた。
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米作り(稲作)の収穫時には稲穂を石包丁(石ぼうちょう)、石鎌で刈りとった
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米作り(稲作)では、たてぎねを使って米を脱穀していた
【 弥生土器(弥生式土器)道具青銅器と鉄器 】
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米作りがはじまったころ、新しい上質の弥生土器がつくられた
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縄文土器と比較して、弥生土器(弥生式土器)は薄くて(うすくて)固く(かたく)文様の少ない、地味で実用的なのが特徴である
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弥生土器には食料を蓄える壷、煮炊き用のかめ、盛りつけ用の高坏(高つき)などがある
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この時代の遺跡から発掘された、土器の底から炭化米が見つかっている
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むらには食料を保存したと考えられる竪穴や井戸、人々の墓がある
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弥生時代には、縄文時代に引き続き獣の骨や黒曜石などを使って道具を作っていた
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漆塗りのうつわも使っていた
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木製の鍬(すき)、鋤(くわ)などの農具を作る工具や船などを造る工具として鉄器が使われた
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金属器は武器としても使われた
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はじめは武器としてつかわれていた剣矛の青銅器(銅剣銅矛)も、後には祭りなどの道具(祭器)として使われるようになった
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むらの祭りに銅鏡や銅鐸(銅たく)が使われるようになった
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争いでは弓や剣が使われ、争いがあったことを示すやじりの刺さった人骨や先のかけた剣が見つかった
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弥生時代では矢じりが大きくなり、武器として使われるようになった
【 祭祀(さいし) 】
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銅剣や銅鐸はむらの祭りに使ったと考えられており、銅鐸の絵からそのころの人々のくらしがわかる
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指導者の墓からは銅剣や鏡などの副葬品が見つかった
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人が死んだらかめに入れて埋葬された
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儀式には祭壇が作られ、指導者は主に神に米作りの豊作を祈り、むらの発展を願う祭りや儀式を行っていた
【 衣(麻、絹、服装、管玉、絹織物、麻、機織り、織物、ひすい) 】
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弥生時代の服装は主に麻が使われていた
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渡来人が伝えた絹の着物は身分の高い者が着ていた
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管玉(くだたま)や曲玉(まがたま)などの副葬品(ふくそうひん)から身分の違いがわかる
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イモ貝で作った腕輪やひすいの副葬品も見つかっている
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ひすいや黒曜石から交易の様子がわかる
【 遺跡 】
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登呂遺跡(とろいせき 静岡県)にも関連する資料
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荒神谷遺跡(こうじんだにいせき 島根県)にも関連する資料
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板付遺跡(いたづけいせき 福岡県)にも関連する資料
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吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき 佐賀県)
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吉野ヶ里遺跡は環壕(かんごう)集落跡で、周りに堀(ほり)や土塁跡(どるいあと)や柵の跡(さくのあと)、物見やぐらの跡が見つかった
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吉野ヶ里遺跡からは渡来人が伝えたと思われる鉄器、青銅器や麻や絹で作った布、南方の貝がらや丸木船の模型などが出土している
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吉野ヶ里遺跡で発掘されたと同じ物が韓国でも出土している
【 その他 】
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復元土器を使って昔の人々のくらしを体験しよう